
上野彦馬(うえの ひこま、1838〜1904)は、幕末から明治時代にかけて活動した日本最初期の職業写真師(写真家)のひとりです。1862年(文久2年)に長崎の中島川河畔に「上野撮影局」を開業し、ほぼ同時期に横浜で写真館を開いた下岡蓮杖(しもおか れんじょう)とともに、「東の下岡蓮杖、西の上野彦馬」と並び称される日本写真界の開祖として知られています。
坂本龍馬・高杉晋作・勝海舟・グラバーなど、幕末の志士や名士の肖像写真を数多く残しただけでなく、写真に関わるすべての技術を一貫して科学的に追究した人物として、「日本初の写真技術者」とも評されています。

上野彦馬は長崎の蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれました。父の俊之丞は、鎖国時代の日本に西洋医学や博物学をもたらしたことで知られるドイツ人医師・シーボルトとも交流のある多才な化学者で、日本にいち早く写真機材を導入した人物の一人としても知られています。
彦馬自身が写真術に関心を持ったのは、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが教官を務める医学伝習所(舎密試験所)で化学(舎密学)を学んでいた頃のことです。蘭書の中に湿板写真術の記述を見つけ、そこから独学による研究が始まりました。
写真に必要な感光剤などの薬品は当時の日本では市場に流通しておらず、彦馬は牛骨からアンモニアを、牛の血から青酸カリを精製するなど、すべて自製で賄いました。この異様な作業ぶりから近隣住民に奉行所へ訴えられたこともあったといいます。
その後、来日していたスイス人写真家ロッシェのもとで写真術の実技指導を受け、技術を確立。化学者としての素養が写真師としての礎を作りました。
幕末の長崎は、日本で唯一、中国・オランダとの交易窓口として機能してきた都市です。安政の開港(1858年)によって欧米諸国とのさらに深い関係が生まれると、長崎には伝習所が設けられ、新たな学問や技術の集積・発信地となりました。勝海舟や坂本龍馬など多くの人々が集まり、ここで得た知識を日本各地に広げました。
写真術もまた、そうした「ヨーロッパから長崎へ、長崎から全国へ」という流れに乗った最新技術のひとつでした。科学技術の導入という点でも長崎は最先端の情報が集まる場所であり、彦馬はその中心にいた人物といえます。
彦馬はポンペから舎密学(化学)を学んだ理論と実験方法をまとめた書物『舎密局必携(せいみきょくひっけい/The Seimikyoku-hikkei)』を文久2年(1862年)に刊行しています。奥付には「上野彦馬 抄釈、堀江公粛 校閲」と記されており、彦馬が内容を抄釈(要約・整理)し、堀江が校閲するという役割分担で制作されました。
この書物は単なる化学の教科書にとどまらず、「附録 撮形術ポトガラヒー」の項に湿板写真技法を詳しく紹介する章が設けられています。なお「ポトガラヒー」はphotography(写真術)を当時の発音に基づいて日本語で音写したものです。器材・撮影法・印画法等が挿絵とともに記されており、写真術を文字と図で体系化したこの附録は、日本語で書かれた最初期の写真技術解説のひとつとして重要な意義を持ちます。
長崎は幕末において「新しい時代が始まった場所」でした。開港後の長崎には勝海舟・坂本龍馬をはじめ各地の俊才が集まり、海外の情勢を学び、自らの思想を研ぎ澄ませていきました。写真館はその長崎に現れた西洋文明の象徴的な場所であり、来訪者たちの好奇心を自然に引き寄せました。
彦馬の最初の顧客は、写真に馴染みのある長崎滞在中の外国人でした。トーマス・グラバーなどもそのひとりです。外国人の評判が日本人へと波及し、各藩から長崎を訪れた武士・商人・学者層へと客層が広がっていきます。
維新を目指す志士たちが撮影局を訪れるようになった背景には、自らの姿を後世に記録として残したいという強い意識があったと考えられています。いつ死ぬかわからない時代に生きた彼らにとって、写真は遺影に近い意味を持っていたかもしれません。実際に坂本龍馬は複数回にわたって訪れており、撮影という行為そのものに前向きな関心を持っていたとされています。また、グラバーのような外国人実業家も上野撮影局の顧客であり、国際色豊かな長崎という場所の特性が、被写体の多様性を生み出していました。

坂本龍馬の肖像写真として最も広く知られているのは、ブーツを履いた立ち姿で腕を組んだものです。長らく彦馬の撮影とされてきましたが、現在の研究では彦馬の弟子・井上俊三の撮影とする説が通説化しています。ただし上野撮影局での撮影であることに変わりはなく、彦馬の指導下にある作品として位置づけられています。
露光中の体のブレを防ぐための頭部固定器(ヘッドレスト)が写り込んでいる写真は、龍馬・後藤象二郎・渡辺剛八・佐野常民など、現在まで数枚しか確認されていないとされています。
龍馬の肖像写真は、慶応元年(1865年)から慶応3年(1867年)にかけて撮影されたと推定されるものが現存しており、主に6種類のバリエーションが知られています。このうち上野彦馬(または上野撮影局)の撮影と学術的に認定・準認定されているのは「洋装立像・洋装座像・後藤象二郎とのツーショット」の3点(下表No.1/2/5)で、和装立像・和装座像は撮影者不詳、半身アップ版は立像写真を後年複写・トリミングしたものです。
最も有名な洋装立像(No.1)は、長らく彦馬本人の撮影とされてきましたが、現在の研究では弟子・井上俊三の撮影とする説が有力です。ただし上野撮影局での撮影であることに変わりはなく、彦馬の指導下にある作品として位置づけられています。これら6点はいずれも幕末人物肖像として現存する最古級のシリーズであり、日本における「近代的個人肖像写真」の黎明を示す資料群といえます。国立国会図書館デジタルコレクション(dl.ndl.go.jp)や高知県立坂本龍馬記念館(ryoma-kinenkan.jp)が一次情報源として画像を公開しています。
彦馬が写真術を習得した頃、使用されていたのは「湿板写真」と呼ばれる技法です。磨いたガラス板に自ら精製した感光液を塗り、湿った状態のうちに撮影しなければなりませんでした。撮影後はそのガラス板ネガと印画紙を密着させて焼き付けを行います。
このプロセスでは、ガラス板が乾燥しないうちに撮影・現像まで完了させる必要があり、5〜10分以内という時間的制約の中で作業が求められました。屋外での撮影には暗幕で覆った移動式の作業スペースを持ち込む必要があり、準備から仕上げまでの一連の作業がすべてひとつながりのものとして行われていました。
その後、1880年代になると乾いた状態でも撮影でき、感度も大幅に向上した「乾板写真」が急速に普及し、写真は一気に身近なものになりました。彦馬の活動期はちょうど湿板から乾板への移行期と重なっており、彦馬自身もこの技術的変遷を現場で経験した写真師のひとりです。

長崎の博物館展示では、上野撮影局で使用されていたカメラ(複製)が現存しており、その実物を確認することができます。カメラ本体は暗褐色の木製大型箱型で、真鍮(ブラス)の金具や調節ネジが随所に使われています。蛇腹(ベローズ)と前板・後板で構成された構造で、前板を前後に動かすことでピント調節が行われました。
レンズには「EXTRA RAPID」の刻印がある真鍮製の鏡胴が装着されており、「C.P.G〜」と読める刻印からドイツの光学メーカーC.P.ゲルツ(C.P. Goerz)製と見られるレンズが確認されています。このタイプのエクストラ・ラピッド系レンズは開口部が広く、露光時間を短縮できる点で肖像撮影に適しており、欧州製の高性能レンズが当時の日本の写真師にも流通していたことがわかります。
なお、カメラ本体の下部にはガラス板を収めるための差し込みスロットが設けられており、感光したガラス板ネガを格納・取り出しする構造となっています。
明治20年代(1880年代後半〜1890年代)当時の撮影料は、名刺サイズの写真1枚で1円程度でした。現在の貨幣価値に換算すると約1万円に相当します。写真を撮ることは当時の庶民にとって決して日常的な行為ではなく、記念や誇示のための特別な出来事でした。このことが、肖像写真に一種の「格式」を与え、志士や名士がこぞって撮影に訪れる背景にもなっていました。
また、上野撮影局では明治20〜22年(1887〜89年)には台紙(カードマウント)を使用した形式の写真を提供しており、台紙のデザインにも撮影局としてのブランド意識が表れています。

上野撮影局は開業後、急速に繁盛しました。長崎をはじめ全国から写真術を学ぶために人々が訪れ、彦馬のもとで技術を身につけた弟子たちが各地で写真館を開業していきます。これにより、写真が本格的な普及期を迎えることになりました。
弟子たちの活躍を地域別にみると、東京では内田九一(1844〜75年)が東京一の腕前を誇る写真師として名を馳せ、日本初の天皇肖像写真を撮影しました。渡瀬定太郎(1858〜1941年)は彦馬の妻の妹キクと結婚し、上野撮影局のウラジオストク支店長を務めた人物です。長崎では薜信二郎(1844〜1909年)が写真研究所を設け、熊本では富重利平(1837〜1922年)が1871年(明治4年)に富重写真所を開業し、1877年(明治10年)建築のスタジオが現存しています。高知では井上俊三(1830〜1907年)が明治初期に写真業を始め、山内家写場の指導役にもなりました。
明治22年(1889年)にはウラジオストクに支店を開設し、その後上海・香港にも進出。日本の写真館として初の本格的な海外展開を果たしています。
明治7年(1874年)にはアメリカの観測隊による金星の太陽面通過観測に協力し、その様子を写真に記録しました。これは日本に現存する最も早期の天体写真の一つとして知られています。
明治10年(1877年)の西南戦争では、長崎県令・北島秀朝を介して政府軍の司令官・川村純義の命を受け、日本最初期の従軍記録写真師として戦地に同行しました。湿板写真の性質上、ガラス板への感光剤塗布から現像まで現場で完結させる必要があったため、彦馬は特製の携帯型暗室を積んだ撮影隊を編成し、弟子2人と人夫8人を含む総勢11名で各地を回っています。
主な撮影地は熊本城周辺・田原坂・松橋・段山などの激戦地、および西郷隆盛が最後に立てこもった鹿児島の城山で、現存するだけで100枚以上の戦跡写真が確認されています。撮影内容は戦闘中の兵士ではなく(長い露光時間では動きを捉えられないため)、砲弾や銃弾が撃ち込まれた民家・荒廃した熊本城・城山から望む桜島のパノラマ風景など、戦争の結果として残った「戦跡」が中心です。これらは日本最初期の「戦跡記録写真」として、現在も日本カメラ博物館などで保存・展示されています。第1回内国勧業博覧会では出品作が鳳紋褒章を受賞しています。
1904年(明治37年)、長崎の自宅で66歳で亡くなるまで、人物・風景・風俗など多様な被写体を撮り続けました。写真におけるすべての技術を一貫して科学的に追究した彦馬は、「日本初の写真技術者」と評されています。
6月1日は「写真の日」として制定されており、その起源は彦馬の父・上野俊之丞が島津斉彬を撮影したとされる記録に由来しています。ただし後の研究では実際の日付に疑義も生じており、慣例として6月1日が写真の日とされています。
蘭書から写真術を独学し、自ら薬品を精製し、スイス人写真家に師事しながら技術を確立した上野彦馬。「カメラは魂を吸い取る」と信じられていた時代に写真師として道を切り拓いた彦馬の存在は、「誰かの大切な瞬間を形に残す」という写真の本質的な価値を、160年ほど前から体現し続けた人物といえます。